自作小説。

丘の上の雛菊(仮題)
あれは2月の終わり。
微かに空に滲む白い息を注ぎ足しながら暗い路地を歩いていた。
街灯の灯りだけでは薄暗く、寂れた安酒場の明かりを頼りに歩を進めるしかなかった。
緑色の看板に白い文字で書かれたスナックの名前は、さながら非常口の案内かの様でいつの間にか扉を開けていた。
店の入り口、おざなりに付けられたカウベルのこもった音が鳴るとカウンターの隅にいた女が顔を上げた。
『あの…まだやってますか?』
出来ればそのまま去りたい衝動に駆られ、女が何かを言う前に声を掛けずにはいられなかった。
『ビールと水割りしか無いけど座りなよ』
億劫そうな動作でカウンターの中に引っ込んだのを見て、女が座ってた席の一個隣に腰を下ろす。
『じゃあ水割りで』
店内をさり気なく見渡すと、奥にある棚やマイクスタンドがカラオケの痕跡を残し、そこにかつての活気が垣間見えた気がした。
『何も無いでしょこの店』
氷がグラスの中で音を立てながら液体に沈み込む。
女が差し出した水割りを受け取り、視線を反らせようと一瞬眼球だけを動かそうとした。
引力に逆らえないかの様に女の手先へまた視線を戻す。
手の甲の皺の深さに気付き、つられて首の上に目をやると顔の輪郭が皺で波打つ女がいた。
声の張りから40半ばか50だとばかり思ってた自分の表情に気付いたのだろう。
『この商売に定年なんてないもんだからね』
女、老婆はそう言ってミックスナッツを手に先ほど座ってた席へ座った。
隣に座ってみると年のせいかこじんまりとした背中、袖から伸びる皮と骨で作られた腕、ナイトドレスが布切れかの様に立体感を失っていた。
『この店はお一人で?』
素朴な疑問が口をついて出た。
『もう随分と一人でやってるよ』
暖房の調整が悪いのかやけに喉が渇き水割りを煽って飲んだ。
『もう一杯頼む。あ、今度はダブルで』
一瞬、女がこちらの顔を覗いた気がしたが正面を見据えてたので視線は合わなかった。
『お客さん本気かい?』
質問の意味を考えるのも面倒で適当に相槌をしていた。
『見たところ迷い客と思ってたんだがね』
女はそう言い残してカウンター奥に消えて行った。
有線を付けに行ったのかどこからか音楽が流れ始め、女は口元を結びながら戻ってきた。

ああ、一杯ですぐ帰らないと分かったからか─。

空いたグラスを傾け底を滑る氷をただじっと見ていると、老婆は店の看板を下げ入り口の戸締まりを始めだした。



夕暮れの日差し、西日が窓から差し込み部屋に濃淡を作り上げ、男は窓に背を向けて途方に暮れていた。
西田一茂は、一人の欄だけ埋めた離婚届を残して失踪した妻、幸恵の行方を捜索し続け疲労を感じていた。
生きてるかどうかも分からない人間をいつまで探すんだ。
最初は憐れみを出していた世間の目も、今では非難や迷惑の目に変わっているのを知っていた。
西田の周りにいた社員や親族、友人達も愛想をつかして去っていった。
膨大に膨れ上がった債務は会社の運営に影響を及ぼしたが、調査会社に依頼を何件も重ねたのだけが原因では無い。
業績が底を這うのが続き終わりが見えていた。
妻さえ戻って来ればまた一からやり直せると、西田は頭を下げ知人や街金から金を借り捜索を続けるしかなかった。

幸恵、お前はどこに行ってしまったんだ?

調査会社から定期的に鳴る電話の音だけが西田の慰めになった。
一度だけ妻の行方が分かり、調査員と共に会いに出向いた事があった。
妻だったはずの幸恵は名を変え、身なりや仕草、顔さえ変えてそこにいた。
あまりの変貌ぶりに声を掛ける事は出来ず、調査員に手書きのメモを託しそこから去ってしまった。
今思い出しても後悔ばかりつきまとう。
あの日手渡したメモをきっかけに、また幸恵の行方が分からなくなってしまったのだった。

俺はあいつの様にただ落ちぶれるのはごめんだ。

西日も傾き、日が入らなくなった部屋でぼんやり浮かび上がるフォトスタンドに目をやった。
色褪せた写真の中で若かりし頃の自分と、前社長であり幸恵の元旦那もある友人が笑っていた。

お前の様な最後はまっぴらだ。

病院で見たあいつは目を当てられない程の破損状態で、身の丈であろう箱に空白を残していた。
借金を苦に人里から離れた海に身を投げ、人目に触れる頃には日が経ち過ぎていたらしい。
もっとも、他殺の線も浮上し司法解剖に回されたようだが、小魚に食われ遺体もわずかな肉片しか残ってなかった。

思い出して嫌な気分になっちまったな。

苦々しい口の中を洗う様にブランデーを流し、一気に飲み下してソファに転がり込んだ。
西田はいつの間にかそのまま眠りについた。




画面ばっか見てると目が変になるな─。

目頭を押さえながら固く目を閉じ、手応えのない業務に筒井正はため息を漏らした。
どこの調査会社も空作業を繰り返して報酬分の書類を提出してるだけだろな。
西田一茂が依頼した我が愛川調査会社も、他社と似たり寄ったりの調査報告を依頼者に渡すだけのだった。
正確に言えばFAXを西田に送り電話で内容を読み上げて終了だ。
藁にもすがる思いかヤケにでもなったのか、西田の住む町から遠く離れたうちの会社にまで依頼が来たのだった。
毎月一回とはいえわざわざ出向いてるわけにはいかない。
他にも抱えてる依頼があるんだ。
正直、進展のない調査に負い目も感じてるのはあるが忙しいのも事実、直接会えないのは仕方ないと思うようにした。
会社の名前は電話帳で最初に来るようにうちの社長が考えたらしい。
『成果が云々より一番先に目に入る情報はインプットされやすいんだ』
と言ってた社長の思惑通り近郊の依頼はうちへと流れてくる。
ほとんどが浮気調査やら身辺を洗うのが多く、場合によっては依頼者の要望に応える様に仕向けたりもする。
いわゆるオトリ調査だ。
聞こえはいいが内容は自慢出来たものじゃない。
社長が飲み屋で口説いた女達が少しのお小遣い目的に援交するような内容だ。
ターゲットの好みを調べ飲み屋で見合った女をチョイス、断られれば交渉で値を上げるか寝るのは無しにすればいい。
それでも嫌と言えば他の女を探せばいい話だと社長は話す。
夜の世界の噂は早く、その手の依頼が増え【別れさせ屋】と呼ばれるようになってしまった。
警察官を目指していた自分としてはまともな依頼に飢えていた。
重要な仕事は元刑事の安田豪に回るのが当然だったのだが、憧れの警察官のモデルの様な安田に嫉妬心は無かった。

安田と一緒に仕事をしたいと社長に頼んだ時期もあったな─。

給料出さないぞと言われ渋々引き下がった結果が今の俺だ。
社長のパシリに従事しながら悶々としてたある日に西田からの依頼が寄せられた。
『筒井お前担当しろ』
自分から名乗り出なくてもこちらに回ってきた時は嬉しかった。
距離なんか関係ないと息巻いて調査に取り掛かったのもつかの間、一個人に手に負える内容ではない。
成果が見込めないと社長が見切りをつけ回してきた依頼、西田の慰め役に自分があてがわれただけでしかなかった。
そんな依頼に人手を増員したりする様な事はなく、報酬だけきっちり二人分の人件費を水増し請求し、手間を掛けて取り組んでると見せかけていた。
取れる相手からは取るのがうちの会社のやり方だ。
それでも依頼は増える一方だから不思議な世の中だなと割り切る様になっていた。

あのオッサンからいくら巻き上げてんだろな─。

失踪した妻を健気に捜索する西田に情けを感じたわけじゃないが、いつまでも不甲斐ない自分のままでいるつもりもない。
西田にはまだ報告する段階には至ってないが一つ煮詰めてる情報がある。
唯一自分だけが手に入れた情報、大型掲示板で偶然拾った書き込みだった。




古くからあるという下請け専門の町工場で今日もただ働くだけ日常。
初夏の日差しに目を細めながら、昼3時に入れる15分休憩を中庭の木陰でひと息入れていた。
缶コーヒーの表面にプツプツと浮き上がった水泡が指でせき止められ、時たまダムの崩壊の様に指を伝いながら地面に落ちていく。
アスファルトに濃い色を浮かべそして淡く余韻を残しながら消えた。

私も誰にも気付かれる事なく静かに消えたいな─。

腕時計の針を見ながら上手く時間を潰す方法に困っていると、投げ出した足元に一体の影が寄ってきた。
視線を上げると工場長の息子が軽い笑みを浮かべ会釈した。
『今日も蒸し暑い天気ですね』
初めてと言っていい程接点の無い人物の言葉に思わず周りを見回した。
『工藤さん以外に誰もいませんよ』
人の良さそうな穏やかな笑みに言葉を奪われ、何も返せない口を工藤は恨んだ。
『隣宜しいですか?』
オロオロ戸惑う工藤に少しだけ距離を空けて工場長の息子、奥村雄一は腰を下ろした。
『毎日真面目に働いてる工藤さんと一度お話してみたかったんですよ』
屈託なく笑顔をこちらに向けながら話す奥村、育ちの良さなのか邪心を感じない男だった。
『雇って頂いてる身ですから当然です』
普通に返すつもりが棘を含む様な言葉しか出てこなかった。
両親以外の人間と会話をする機会があまり無く、感情を上手く伝えれないもどかしさを久しぶりに感じたなと工藤は胸の中でこぼした。
『それでもお洒落や恋人に気をやられる年頃でしょう?』
なんだ、この男も他の人間と同様私をからかいに来たのか。

期待をしていたわけでもなかった。いや、少しだけ期待している自分がいたからこそ落胆しているんだろな─。

工藤は顔を伏せ両手に温くなった缶コーヒーを握り締めた。
『お話はそれだけですか?休憩時間終わりましたので戻らせて頂きますね』
背中を向けて立ち去ろうとした工藤に慌てた口調で奥村は叫んだ。
『あ!待って下さい!もう少しだけ』
足は止めるだけで振り返る事もせずにいると、工藤の背中にまた奥村が続けた。
『仕事が終わったら食事でも行きませんか?』
思わず振り返って奥村の表情を確かめたくなった。

止めておけ─。

とどこからか制する声が聞こえた。
さすがに背中を向けたまま会話をするのはいくら私でも悪い事ぐらい知っている。
足先を奥村に向け半身の姿勢で顔は伏せたまま、片手で帽子を深くかぶり直しながら呟いた。
『取りあえず仕事に戻ります。話はその後お聞きします』

早く土から上がったせっかちな蝉の声、遠くに聞こえる小学校のチャイム、休憩を終えた工場のざわめきも熱を帯びた耳に届かなかった。

『待ってます』
奥村の力を込めた様な声しか耳に届かなかった。


奥村の言葉に気を奪われながら仕事をしていると、終業の音楽が工場内に流れ、従業員達は機械の流れを止めたり各レーンにシートを被せだした。

あぁ、そうだった─。
時間内に終わってなければ残業して続けてた業務も、上のお達しか何かで途中でも業務終了なんだっけ。

残業で生活を支えてた社員には気の毒だが、実家暮らしの自分には大した問題じゃないと思ってた工藤。
今日ばかりはその社員と同じように残業を望まずにはいられなかった。
理由は異なれど、のらりくらりと片付けを緩慢な動作の工場内、そこへアナウンスが響き渡った。
『第2の工藤さん事務所まで来て下さい』
社長の妻兼事務所員の間延びした声で呼ばれ、何人かの視線を感じながら事務所に向かう事にした工藤。

待ってるって言ったのはそっちじゃない─。

逃げるつもりなど少しも無かった、社長の息子というだけで断る気は持ち合わせて無かった。
赤く錆びた階段を上り、事務所とは名だけの民家の扉を前にし、ノックしようとした右手を宙に固まった。
時計の指す時間よりも空は高く、日差しに照らされた自分の姿がガラスに映し出される。

帽子を取った頭は乱れ、化粧っ気の無い素顔、眉は薄くその下にある目は離れ、赤く染まったニキビ顔。
鼻は異様に高く、その高さに合わせたように下顎が前に突き出し、口元は不満げな形を主張していた。

見慣れたはずの自分の姿に一瞬目を奪われ、何も無かった様に止めてた右手を動かした。
嘆くだけの自分はとっくに見放した。
両親に辛く当たる日々もあったが、とあるテレビ番組をきっかけに徐々に家の中は平穏を取り戻していった。
容姿にコンプレックスを抱く女性達を、美容整形やエステサロン、有名美容師、メイクアップアーティストなど美のスペシャリスト達が手助けをし、暗く悩む女性を生まれ変わらせる内容の番組。
言わなくても同じ番組を見てた両親も、そして自分自身もそういう選択肢がある事を認めた。
同じ女性として母親はある日、私の部屋に入ってこう話した。

『あなたのいい所は親である私が知っているわ。けど世間はそこを見る前にあなたを見ようとしてくれない。人は人として真っ直ぐ生きて行けばいいと思ってるのは今も同じよ。けどあなたが何度も苦しみ死にたがってきたかも知ってる。大事な娘にそんな思いをさせて私は見守る事しか出来なかった。』

悔しいのか悲しいのか複雑な思いを顔に浮かべながら、静かに話す母の左手を見ていた。
傷という傷こそはほとんど目立たなくなってはいるが、移植した皮膚は質感が微妙に異なり、光の反射の僅かな差で分かる─。

中学2年の6月、心の許容量を超えた陰鬱な思いから逃れようと、ガレージにあった灯油のポリタンクを片手に佇んでいた。
これからやろうとしてる自分の行動が最善とは思っていなかった。
けれど、幸せになれない人生にしがみつく勇気も無く、これから味わう苦痛に恐怖を感じて動けずにいた。
『何してるの?』
か細い母の声が二階の寝室から投げられ、決心も半端なまま灯油を浴びた。

怒られる─。

馬鹿な真似はするなときっと怒られる、もう誰かに怒鳴られるのも蔑まれるのも嫌だ。
急いで着火させようとライターを握り、着火石を擦る着火装置を回そうとした。
滑ってなかなか思い通りにならない。
焦りも手伝い死のうとする恐怖よりも、死に損なってまた繰り返される現実よりも、両親の嘆き呆れる顔が目に浮かんで離れなかった。

お願い死なせて─。

願いが通じたのか火花が散り、火柱が透明な容器から上がり、一瞬時が止まったような静けさに包まれた。
『駄目!』
右腕の衣服にドライアイスの痛さにも似た冷たい熱を感じ、我を忘れ炎を見ていた目に白く細い腕が飛び込んできた。
次の瞬間、母の体全体が私の右腕を包んだ。
ゆっくりと状況を把握して母の行動に戸惑い、混乱状態の自分の甲高い声が耳を貫いた。
『大丈夫!大丈夫─。』
母の左手の焼けた嫌な臭いと自分の髪の焦げた臭い、具合が悪くなったカラカラの喉に酸っぱい液体が広がった。

ぼやけた視界に白い空が見えた。
目が慣れてそこが天井だと気付き、ふわふわとしていた感触も次第に寝ている体の感覚に戻る。
右腕に熱を感じて視線をやると、薬品か何かを塗布したガーゼが巻かれていた。
『気付いたのか─。』
声のする方へ意識もせずに視線をやると、あまり顔を合わせる事が無かった父がいた。
『大した火傷じゃなくて良かったな─。』

あぁそうだった─。

自分のやった事を思い出し、悔しさで涙腺が緩み涙目になっていった。
『母さんも無事だ─。』

あぁ…そうだ、そっか良かった─。

退院するまで事実を知らず、命を引き止めた母と再会した時に自分の行為が愚かしい事と思い知った。

母は左手から上腕部にかけて焼けただれ、皮膚移植を何度も繰り返す羽目になったのだ。

そう、自分のせいで綺麗な母の白い腕を失った。


『あなたも考えてるのかも知れないけど…生んだ私が言うもんじゃないけど、整形したいなら協力するわ─。』
彼女、母の苦しそうに語る口元を見て決心がついた。
『今までごめんね。そしてありがとう』
心から自然と湧いた言葉が自分の声になっていた。
一瞬、驚いた顔がいつもの穏やかな笑みに変わった母を見て、私も自然に微笑み返していた。


『工藤です失礼します』
扉をノックして引き戸を開け、室内に足を踏み入れた。
好奇心だろうと気の迷いだろうと何だっていい。
昔の私じゃない、これからの未来を見ていた自分に背中を押された。




招かれたまま応接室に通され小一時間。
ホームセンターで見た事のある間仕切り、合皮素材なのかやけに固いソファー、その中でテーブルだけが立派で浮いた存在だった。
金色の達筆な文字で贈呈と書かれてるのを見て納得した。

『─さん。工藤さん?』
我に返り、自分の置かれてる状況が妙なのをまた感じながら、呼ばれたので愛想笑いを浮かべ返事した。
『すいません、緊張してしまいまして。』
そりゃそうだろと社長、緊張しなくていいのよと社長の妻、そして息子の雄一。
何故こんな構図になったのか疑問もあるが、親が付き添いという時点でただごとでは無いのを悟った。

白々しく世間話を口にしながら腹の探り合いの様な空気。
雄一と目が合い状況を聞きたい一心で視線を逸らさずにいると、社長がまたどうでもいい話題を出しては、私に意見を求めるのだった。
そして、テレビの話題であの番組の事を聞かれた。

『あれは整形を勧める意図なのか?工藤君は整形をどう思ってるのか聞きたいね』

社長の問い掛け、父親の発言に雄一はギョッとし、妻の方は手元に視線を落としたまま落ち着かない様子だった。
聞かれた当の本人は気にも留めず自分の思ったまま答えを返した。
『日常生活に支障をもたらしたり、精神的苦痛を感じて生きて行けないと言うならば、それも一つの手段だと思います』

私もそのつもりだ─。

口を突いて出そうになった言葉を飲み込み、あくまでも意見だけに留めるようにした。
『しかしせっかく親から受け継いだ顔をいじるなんて事は然るべき行為とは思わないか?』
グンと室内の重力が増したような気がした。
『勿論安易な気持ちでするべきではないですね』

物心がつき始めた頃に容姿のコンプレックスを同時に学んだ。
成長と共に人間の集団心理も肌で感じるようになっていった。
仲良くしていた子達も群れの中に取り込まれ、私一人違う生物だから群れに入れる事は出来ない─。
近付こうとする私をそんな目で訴え、いつしかそれはイジメへと膨れ上がっていった。
私が触ると菌が付いたと罵られ、教科書や体操服など度々燃やされ、机は消毒だと池に投げられた。
悲しかった。
悔しくて泣いた。
けれどいつしか終わるだろうと思いながら耐えた。
自分が思う以上に容姿は受け入れられず、いつしか生まれた事を嘆き死ぬ事ばかり考えるようになっていった─。

社長の言葉に昔の記憶が引きずり出され、反発で心を掻き立てられながら蓋を閉じるしかなかった。
だけれど─。
たかが食事に誘われた身でこんな状況に付き合わされるのも釈然としない。
終業からかれこれ二時間、呼ばれたまま家に連絡する暇もなかった。
『すいません、ちょっと家の者へ連絡していいでしょうか?』
取りあえず携帯から電話を掛けておこうと申し出ると、社長と社長の妻は顔を見合わせて険しい表情を浮かべた。
『まだ二人を認めたわけじゃないんだ』
先ほどより低く、正確なリズムを取りながら社長は独り言の様に呟いた。
会話の途中で電話を掛けようとした事、その事を責められてると勘違いし一言詫びた。
『失礼しました』

急に社長は立ち上がり私を見ながら怒鳴り散らした。
『お前のような女と息子は付き合わせられん!生まれてくる子供が憐れだ!』
『工藤さんに失礼ですよお父さん!』

一体何なのだろうかと呆けていると、社長と息子の争いで意味を把握する事が出来た。
『俺はただもっとまともな女性を─。』
『彼女のどこがまともじゃないんですか!僕はずっと見てました!父さんあなただって彼女を信頼してたでしょう?それを─。』
『俺が言ってたのは働き手としての事だ!こんな不細工な嫁など貰うようならこの家から出てけ!』
『分かりました、工藤さん行きましょう!』

手を掴まれ、錆びた階段を降りると辺りは既に闇だった。
外灯に照らされた雄一の白いシャツの背中を見ながら、引かれた手を追って走った。
足早に急いだせいかそれとも違う理由か─。
こめかみを力強く脈打ち、ドクンドクンと鼓動が高鳴った。
日中照らされたアスファルトや壁から熱が溶け出し、輪郭を失った景色の中二人の影が止まる。

『─工藤さん、こんな事になってしまいすいません』

何に謝ってるのだろうか?
食事が取り止めになった事か、親子喧嘩に巻き込んだ事なのか、侮辱された事だろうか。
薄々と気付く雄一の気持ちからは目を逸らし、返す言葉を模索していた。
『あんな所で言うつもりじゃなかったのにな─。』
溜め息を吐き出しながら口から漏れた雄一の言葉。
繋いだままだった手に、そっともう一つの手を添えて雄一は言った。

『あなたが好きです。僕と一緒にいて下さい』

口元を見ながら雄一の歯並びが綺麗だなとぼんやり思うだけだった。
耳に届いたはずの言葉も朧気で、鼓動が騒がしく意味を理解出来ないでいた。

『工藤幸恵さん、僕とお付き合いして下さい』

確認するかの様に雄一は繰り返した。




幸恵─。

二度と妻は戻って来ないのだろうか。
朝から降り続ける外の景色、ふと幸恵から貰った傘に西田は手をやった。
紺色に黒いラインが入った大ぶりの男物の傘だ。
まだ結婚する前に食事のお礼だと、そう言いながら手渡し走り去ったのを覚えている。
奥村と離婚したばかりで実家に籠もりがちな幸恵を連れ回し、信頼と情を植え込ませ俺の物、俺の妻にした。
俺と奥村は友人であり仕事の相棒と周知の仲だった。
当然、いろんな憶測が流れ騒がしかったが、奥村の浮気が原因で離婚─。
その情けで俺が幸恵を引き取った様に仕向けた。
そう、仕組んだのだ。
酒の席で酔いが回った奥村が口走った一言。
それを聞いた時は単なる色惚けだと思っていた。

『幸恵は最高の女だ。幸運の女神だ!』

いつになく饒舌な友人の奥村、離れの座席で合コンの馬鹿騒ぎ、隣のカウンターの若い女に目尻を下げた中年の笑い声。
チェーン店の居酒屋で久しぶりに友人の酒の誘い、仕事で溜まった鬱憤晴らしをするつもりで来てみたがこれだ。
焼き鳥の串ごと噛みちぎりたい衝動を抑えた。
そんな事したら余計胃に悪い。

つい最近顧客のわがままに振り回され、一つ契約を打ち切られたばかりだ。
小さな会計士事務所にとっては損失、所長に嫌味を言われ、減給処分を下された。
その顧客はどんなに優しく言っても言うことを聞かない。
サインするだけだからと書類をまとめても飲みに出掛け、期日ギリギリになってから泣きを入れてくるような奴だ。
『金の管理が出来ないなら社長になるべきじゃない』
苛立ってつい言ってしまった。
『君の言う通りだな。いやぁ面目無い』
お調子者の顧客もおどけて返したのだが、時間が経つにつれて段々と気分悪くなったのだろう。
『金払って何で怒られなきゃなんねーんだ!』
後日事務所に苦情と契約解除の旨を述べ、そして俺は所長に怒鳴られ減給となった。
お母さんとして慕われてる年輩女性の先輩のやり方を真似したものの、顧客の尻を叩く様な扱いは到底俺にはまだ早い。
そんな事ぐらい自覚していたはずだったのだが─。

奥村はやっと来た春に浮かれ、俺の様子など気にしていない。
自分の家の工場で働いてた女がどうした。
大学時代のお前はもっと上等な女に囲まれてたじゃないか?
口では羨ましいと返し、奥村の締まりのない顔を見ながら毒づいた。
『彼女と付き合いだしてから運が向いてきたのか…兎に角全てが上手く回るんだ』
酒に弱い奥村の頬は既に赤ら顔、俺にも美味い酒を分けて欲しいもんだ。
『最初はうちの親父が猛反対してたんだけど…いや、今は認めてもらってんだ。彼女は俺に内緒で親父に会いに行ってたみたいでさ』

反対された当初、かけおち同然の交際が始まったと言う。
彼女は奥村と奥村の両親との仲を気にし、何度もこのままじゃいけないと、電話で話するだけでもと説得したらしい。
意固地になって自分から折れるのが嫌だった奥村。
何でも自分の父親が彼女を侮辱したと言う。

当時、話に聞いただけだった俺は幸恵をそこそこいい女、今時にしては珍しく常識を重んじる大和撫子のイメージだった。
侮辱って何やらかしたんだろなと、奥村の親父を思い浮かべたがさっぱりだった。

勢いで交際がスタートし、真面目で不器用な彼女と半同棲の暮らし、男性経験が無かった彼女と結ばれてから数日後に転機が訪れたらしい。

『処女だったわけ?重くないかそれ』
ドジ踏みやがったなと俺が茶化すと、奥村は真面目な顔してこう言った。
『彼女が経験無いのは何となく知ってたさ』
結婚を意識してたから重くないと言う。
父親に反発する勢いだろうと俺は思った。
『一度会ってみたいな。幸恵─だっけ?その女神とやらに』
年齢的には適齢期を迎えた俺と奥村、だがそう易々と結婚を意識するには早い気がした。
『今ここに呼んでみようか?』
酒と何か違った勢いの奥村は、幸恵を携帯で呼んで三人で飲む事になった。

彼女の自慢をしたくて仕方ないんだろうと思ってた。
幸恵はどんな気持ちでここに向かったんだろうな─。

霧雨の窓の向こう側、真夏に出会った幸恵を思いながら帰りを待った。
西田の手元の傘には白く埃がかぶったまま、他の幸恵との思い出の品と同じように置物になっていた。
大事にしてるわけじゃない。
捨てると今より運に見放される気がしただけだ─。
 


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